聖マリア大聖堂
位置
上町台地(うえまちだいち)の北部にあった難波宮や、その北にあった大阪城は、大阪の歴史と文化の発祥の地であった。難波宮は、飛鳥時代に日本で最初に建造された宮殿を有し、奈良時代になっても、ここで国家行事が行われ、天皇がこれに参列することがあったようである。またこの時代には、遣唐使が唐の長安に行き、そこでキリスト教との接触があったかもしれない。大聖堂は、その難波宮とほとんど隣接している位置にある。
また大阪城があった時代には、ここに諸大名の屋敷が塀を連ねていた。大聖堂敷地の北西の一隅は細川越中守の屋敷跡である越中町に属し、ガラシア夫人が壮絶な死を遂げたゆかりの地である。大聖堂敷地から程遠からぬところに、細川夫人の井戸として親しまれた「越中井戸」が残っており、そばに夫人の絶世の句を刻んだ受難の碑が立っている。ここに大阪の司教座聖堂が建造されたこと自体、文化交流史的にも意義深い。それに、予想される南海地震の津波の恐れもない。
工事概要
(1962年当時の故田中道雄師の記録から)
聖マリア大聖堂は、日建顧問長谷部鋭吉氏によって設計された。鉄骨鉄筋コンクリート建で坪約2450平方メートル(750坪)、延約3696平方メートル(1120坪)、軒高20メートルという大伽藍である。
外装には淡クリーム色のタイルを用いているが、本大聖堂が奉献せられた「無原罪の聖母マリア」の大理石像が安置されている正面中央の空色の部分は、タイサン・タイルと称する、絶対に変色しない特殊建材である。
屋根は青銅、内壁は腰がイタリアのヴェロナ赤大理石、上部はセラスキン金目地、波型の天井は、特に音響効果に留意した新建材で張られている。
床は、内陣がヴェロナ赤大理石、内陣の階段と外陣の中央および通路が白雲色の大理石、玄関ホールの四囲の壁と説教台は、黒地に金模様の高価なポルトーネ産の大理石が張られている。以上の大理石はすべてイタリア産のものである。
聖堂前広場、階段はトラペルチノ大理石、その他は、テラゾー・ブロックが用いられている。
堂内装飾
堂内の大壁画は芸術院会員堂本印象画伯の筆になる日本画「栄光の聖母マリア」。
中央祭壇、司教座、脇祭壇など、聖堂の備品はカララのメンカラリア社の製作で、イタリアの有名な彫刻家アレギーニ氏による。大聖堂正面の無原罪の大聖母像、玄関の右壁にある十字架のキリスト像、小聖堂外壁の「キリスト埋葬」のレリーフもイタリアの大理石製である。
天井に吊された、聖母マリアと使徒ヨハネの間で十字架上で最後を迎えたイエス像、十字架の道行の14場面の彫刻、小聖堂にある、聖フランシスコ・ザビエル像、聖女アグネス像は木彫で、イタリアのチロル地方の彫刻家ルンガルチェ氏の傑作。
大聖堂前の両端にある福者高山右近と細川ガラシアの石像は、安部政義氏の力作。
大聖堂の窓は大小あわせて100であるが、通風窓をのぞくほか、全部ステンドグラスで、無原罪の御やどりから被昇天にいたる聖母マリアの生涯を美しい色彩で描き出している。小聖堂の側面の窓は、玉造教会の保護の聖人の一人、聖フランシスコ・サビエルが日本人に教えを説いている図である。向かって右の奥の脇祭壇の横にあるステンドグラスは、ベツレヘムにおける幼子イエスとその両親を描く。
その次にあるのは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるイエスが表現されている。このすべては、ベニス工房の羽淵紅州氏が欧米から取り寄せた材料によって製作したものである。
グランド・パイプオルガンは、オランダのヴェルシュエレン社製で、2400のパイプを有し、聖堂用オルガンとしては、当時日本で最大のものであった。
大聖堂創立当時あった塔は、阪神淡路大震災後、倒壊の恐れがあるとして、取り除かれた。また、前庭にあった噴水も、子供たちにとって危険だということで取り除かれた。また聖堂内の洗礼盤、聖体拝領台なども取り除かれた。
工事過程
▪️1959年3月17日
定礎式
ローマ教皇庁布教聖省長官P・アガジャ二アン枢機卿を迎えて、定礎式を行っていただく。またフルステンベルグ教皇公使と共に植樹式を行ってもらう。
▪️1960年10月
大聖堂の設計者、ヨセフ長谷部鋭吉氏逝去。
▪️1960年12月
新大聖堂建設のため、その敷地にある旧司祭館に代わる新司祭館完成。
新聖堂建設予定地の整備、はじめは、1949年に、聖フランシスコ・サビエル到来400年記念に建てられた聖堂を小教区の聖堂として使用しながらの新大聖堂建設であり、工事の進行と共にその併用は厳しくなる。
▪️1963年3月21日
献堂式
▪️1964年
ファチマの聖母像設置
▪️1995年3月
カテドラル鐘楼解体工事
▪️2014年5月
耐震改修工事
▪️現在に至る
聖マリア大聖堂の特徴
ヨーロッパにおける伝統的な大聖堂は、バジリカと言われる形式を有する。それは、玄関(アトリウム)を通って入ると、通常二列に並ぶ列柱があり、その間にある3つの空間にネイブと言われる3つの信徒席がある。その面前に主祭壇があり、その左右にも信徒席と脇祭壇があり、主祭壇の背後にも座席群、半円形の天井がある(アプス)。主祭壇の上にはドームがある。これを上から見ると、十字形になってい
る。それは、東に向かっていることが多い。「光は東から」(LUX EX ORIENTE)と言われるからである。この原則に従って建造された教会が、日本にもあった。大阪の川口にあった初代司教座聖堂もそうであった。しかし、聖マリア大聖堂は、バジリカと言えない。新しい司教座聖堂である。それは、単純素朴だが、きめ細やかな心遣いが秘められている。それは、南北に長く、東西に短い、単純な長方形と言え
る。それは南に、ファサード(正面の入り口)があり、内部は北に向かっている。それは上町台地が南北にあり、東西がかなり厳しい斜面だからでもある。それに東西に走る道が南側にあるからである。以前にあった玉造教会も南にその正面があった。ただし、この辺りは米軍の空襲で焼け野原になっていた。田口芳五郎司教は、その教会の周りの土地を、欧米からの援助金で一つ一つ買い取っていた(藤野滋氏の証言)。そのことは、戦後間もない頃からここに司教座聖堂を建てる構想が芽生えていたのかもしれない。