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壁画

 大聖堂の玄関から広大な本堂に入ると、その正面の奥にある大壁画に視線が惹きつけられる。それは、「栄光の聖母マリア」と命名された巨大な日本画である。列柱のない本大聖堂では、堂内のどこからでも壁画が見えると言えよう。この大聖堂はこの大壁画のために作られたかのようである。この壁画のために、左右の壁にあるステンド・グラスの光も調整されている。またその壁面や内陣、床などの上品な色合いの大理石と調和して、独特な霊的空間を生み出している。

 この大壁画に惹きつけられるかのように、近づいてみる。そのスケールの大きさに圧倒される。しかし、これがどうして「栄光の聖母マリア」か、疑問が心によぎる。ほかに聖母戴冠があるではないか。天にあげられた聖母が、御子イエスによって冠をいただく場面である。聖母戴冠を知りながらも、この壁画の作者は幼子イエスを抱く聖母を描く場面を選んだと思う。

 聖母子を描くのは、西暦2世紀の末期にまで遡る。最古の聖母子のフレスコ画は、ローマのプリスキルラのカタコンベにある。聖母が抱く子と預言者と星が描かれている。これは、預言者バラムが見た、メシアを予告する星で、これが聖母子の「子」のことだと言おうとしている(民24:17参照)。つぎに、ローマの禁教令が解かれた4世紀に、特にキリスト教徒の石棺に彫られた聖母子と、星を見て礼拝に来た東方の三博士がある。これは、「博士たちの礼拝」(Adoratio Magi)と言われる場面で、ベツレヘムでお生まれになったメシアであるイエスを、星を見た異邦人が礼拝に訪れた(マタイ2:1-12)という場面である。この場面は、ローマがまだ異教徒の町であったとき、教会の中に現存するイエスを礼拝するため、異教徒たちが招かれていることを表現している。ここにキリスト論、教会論、宣教論の総合がある。

 聖母子を描く伝統は、古代キリスト教に遡るが、大壁画の聖母子に刺激となったのは、初期ルネッサンスの作品ではないか。それは、13世紀のフィレンツェのチマブエ、シエナのドゥッチョ、アシジのジョットの残した聖母子ではないか。それはマエスタ(尊厳)と呼ばれ、現在フィレンツェのウフィツイ博物館に並べて展示されている。崇高なチマブヱのマエスタ、典礼的なドゥッチョのマエスタ、この地上の、身近な出来事として描こうとするジョットのマエスタ。確かに、マエスタには雲は描かれていない。これは数世紀たって、無原罪の聖母を描くときに描かれるようになった。ここで雲が描かれているのは、本大聖堂の正面の石像のマリアと同じであることを示している。この雲を除くと、ここに描かれているのは、豪華な和服姿の聖母子で、ここには、福音書の物語が、遠い過去の出来事ではなく、時代と場所を越えて、私たちの中で起きる救いの出来事であるとの、アシジの聖フランシスコの聖書解釈の影響がある。和服姿の聖母は、ここに集う信徒の共同体(教会)を意味し、わたしたちはその中で神の独り子イエスに出会う。実は、これが第2バチカン公会議(1962ー65)の教会論であり、マリア論である。

 聖母マリアのご尊顔も、若い日本女性の顔で、気品を漂わせていて、申し分ない。その母と子の両手の触れあいは、実に微妙で、その意味はそれを眺める者の想像に委ねる。ただ御子イエスの右手が人指し指で何かを指している。それは雲の下、つまりこの地上にいて、十字架をもつ男性にほかならない。

そうだとすると、幼子イエスはこの男性は誰だと問うているのではないか。それに対してローマ神話の愛の神キュウピットが、ここでは光輪があるので、幼子天使として「高山右近です」と答えているのではないか。それを見た右下にいる別の幼子天使が、「こちらにも細川ガラシア夫人がいます」と叫んでいるのではないか。こうしてそこに白百合の花をもった細川ガラシア夫人がいる。このようにここには、ルネッサンス期の画家が用いる「聖なる対話」の手法があると思われる。このように、この大壁画には「見せる」だけ

でなく、「聞かせて」、「匂わせる」ことにもなっている。

 大壁画を飾るように、天井両脇には、2枚の壁画が飾られている。

左側には「ルソン行の高山右近」、右側には「ガラシア夫人の最期」である。

「ルソン行の高山右近」

福者ユスト高山右近殉教者であり、現在も列聖運動が進められている。

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「ガラシア夫人の最期」

細川ガラシア夫人は、その死が自殺と見なされ、列福列聖は論外とされてきた。しかし、自殺の考えが見直されつつある現在、その死はむしろ尊厳死と見なすべきではないか。

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 今から十数年前に田口大阪教区司教から近い将来、大阪に聖堂を建てるがその時はマリア様の壁画を描いて下さいとの依頼があった。私はこれを諾し、以後それに心を傾けたが、その間二度渡欧しフランス、イタリア、ドイツ、スペイン等の各地の著名寺院を巡歴して数多くの宗教名画に接し大いに得るところがあった。そこには各国の芸術家達が、各自の理想像をマリアやキリストに托して描いていることを発見して、自分も日本には日本の聖母像があって然るべきだと信じた。幸いこれは田口司教の理想とも合致したのでその線に従って想を練ったのである。そして私がこの大阪の聖堂の壁画を制作するに当って時代考証を桃山期に置たのは、フランシスコ、ザヴィエルが此の時代に初めて来朝し、信長に公的に布教を許されたのが所謂安土桃山時代であり又、聖母マリアやキリストと共に画面に描かる高山右近とガラシャ夫人は同じく此の時代に生をうけた人であり、此の時代の代表的なキリスト教を信奉した人物であるよってで然かも風俗史的に見ても最もけんらんたる装をした時代であるので、此の時代の風俗を写すことが最も壁画としての表現に適せるものと信じたからである。

「栄光の聖母マリア」は、堂本印象画伯の作品の中でもひときわ大きな作品であり代表的な作品ともいえる。

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 大聖堂を飾る大壁画を制作した堂本印象画伯の略歴は以下のとおりである。

▪️1891年12月25日

酒造業堂本伍兵衛、芳子の三男として京都に生まれる。本名三之助。

▪️1911年(20歳)

このころから「印象」号を名乗る。

▪️1919年(28歳)

第1回帝展に《深草》が初入選する。

▪️1925年(34歳)

第6回帝展出品の《華厳》により帝国美術院賞を受賞

▪️1952年(61歳)

渡欧し遊歴する。

▪️1963年(72歳)

聖マリア大聖堂壁画を描く

▪️1965年(74歳)

社団法人堂本印象美術館を設立し、翌年10月堂本印象美術館を開館

▪️1973年(82歳)

ローマ教皇パウロ6世の委嘱により、バチカン近代美術館に飾る《母と子》を制作。

聖大十字シルベストロ大騎士勲章を受ける。

▪️1975年(84歳) 9月5日死去

 堂本印象美術館は社団法人堂本印象美術館より京都府に寄付され、1992年4月からは京都府立堂本印象美術館として開館し、現在も画伯の作品を展示し紹介をしている。

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